| チョコレートとココアの歴史 (長文です(^^ゞ ) |
〜板チョコは、僅か100年前に出現〜
カカオ樹の原生地は中南米
コロンブスのアメリカ大陸発見によって、カカオ豆は スペインに持ち帰られた(1494年)と伝えられていますが、当時はカカオが何に用いられているものか解らずに、その価値は認められてはいなかったといわれています。
現在でも野生樹が見られます
当然のことですが、それよりずっと以前から南米ではカカオの樹が野生していました。ブラジルの アマゾン河流域やベネズエラのオリノコ河畔には野生樹が見られますが、この地方がカカオ樹の原生地といわれています。やがて遊牧インディアンの根拠地の移動に伴って、カカオ樹は中央アメリカから西インド諸島に拡がったものだろう考えられています。
インカ、マヤでは、カカオが栽培されていました
コロンブス以前に南米ではインカ種族が相当高い文化をもって栄えていましたし、メキシコ地方の原住民たちも灌漑施設などを備えて発達した農業を営んでいました。王族は広大な屋敷に住み、農作物を年貢として献上させ、織物などもみごとなものが今も残されています。
パナマ地峡に住むマヤ族もコロンブスの時代、既にカカオを栽培していて、年貢にカカオ豆を徴収されたことが絵画に残されています。
1519年にスペインがフェルナンド・コルテスを隊長としてメキシコに遠征させた時、はじめてカカオ豆の価値と用法がわかったようです。
貨幣として通用されていたカカオ豆
カカオ豆は貨幣として通用されていて(原住民1人1日の賃金がカカオ豆100粒)、また 飲料(チョコラートル…「にがい水」)として用いられていました。火で焙って石臼ですりつぶしドロドロの液状にしたものにバニラや胡淑などで味付けして飲んでいましたが、高価なものなので王族や金持でなければ容易に飲めませんでした。王族や金持ちたちは1日に50杯以上も飲んだそうです。
1526年、カカオ豆がヨーロッパに現われた最初です
先述したスペインのコルテスは帰国の時にカカオ豆を持ち帰り、当時の皇帝カール5世に献上しました(1526年)が、これがチョコレートおよびココアの原料としてのカカオ豆がヨーロッパに現われた最初です
最初はヨーロッパ人の嗜好に合わなかった
しかしカカオ豆だけの原料では飲み物としてヨーロッパ人の嗜好に合わなかったので、砂糖を入れて甘くして飲むようになって、大いに珍重されるにいたりました。
スペインに輸入された当時は、王候・貴族・豪商の間だけで用いられて、スペイン上流社会に独占された飲みのもでした。その後オランダの海賊船にスペインの積荷が掠奪されてカカオ豆がオランダ人の手に渡ったり、イタリア人がスペインからカカオ豆を持ち帰ったり、また フランスに伝わったりしてヨーロッパ各地に広まり出したのです。
チョコレート・ハウス?
フランスは1660年に西インド諸島のマルテニック島にカカオを栽培して、カカオ豆が次ぎ次ぎとヨーロッパに輸出されるようになったことで、スペインのカカオ豆独占の夢は破れ去りました。イギリスでも街の喫茶店でチョコレートを飲むようになり、「チョコレート・ハウス」が出来るようになりました。
摩可不思議の秘法とされた製法
しかし当時はまだ製法の技術が未熟で、手工業の域を出ず摩可不思議の秘法とされていたのです。その後フランスのデュボン博士によって医薬としての効能が優れていることが発表されて栄養薬品的にも見直されるようになりました。
アメリカでは独立戦争の前後にチョコレートが創製され、今日の世界一の産業となる基礎を築きました。
ココアをはじめてつくったバンホーテン社
1819年にアレキサンダー・カイラーがチョコレ一トの生産を機械化したのを皮切りとして、1827年にスッチャードがはじめて混合機を造りました。1828年にオランダのバンホーテン社がカカオ豆に含む三分の二の脂肪(カカオバター)をしぼりとる方法の特許を取得します。
板チョコの登場
これをチョコレート パウダーといって、現在の私たちのいうココアをはじめてつくったのです。この方法でココアをつくると副産物としてカカオバターが出ます。カカオ豆の皮をとったカカオニブをすりつぶしたチョコレート、粉糖、カカオバターを混ぜると板チョコが出来ます。
このようにして今日世界の 菓子界に覇をなした板チョコは、僅か100年前に出現したのです。1876年にスイスでミルクチョコレートがつくられ、チョコレートの消費は一躍多くなりました。
ゴールドコーストは総産額の過半数
カカオ樹はセイロン、ジャワ、西アフリカヘも移植されました。とりわけ西アフリカの旧ゴールドコースト(ガーナ)は、イギリス本国のチョコレート業者の資金的バックもあって、政府当局の農業技術の指導、カカオ園開墾の助成、カカオ栽培拡張上必要なあらゆる手段が講ぜられ、西アフリカの生産は世界の総産額の過半数を占めるにいたりました。
戦争中は輪出の困難・カカオ園の手入れ困難とにより世界的に減産となりましたが、戦後の急速なチョコレート・ココアの消費増進に応ずることが出来なくて、カカオ豆の値段が急激に騰貴したこともありました。
減産がチョコレートの研究に拍車をかけた?
しかしこれがかえってチョコレート工業の研究に拍車をかけることになって、カカオバターに代るハードバターなどに成果を見ることになります。
その後カカオ豆の増進をはかり、価格も正常に復するようになったのですが、カカオ豆生産国と消費国との間にはその主張になお大きな開きがあり、国連による価格の協定取決めに至るまでには時間がかかるでしょう。
日本では、「風月堂」が最初のチョコレートを製造
日本では、明治初年に「風月堂」がチョコレートの製造をやったのがはじめてのようです。明治6年(1873)に岩倉具視を代表とする使節団がパリを訪れた時、日本人としてはじめてチョコレート工場を見学したという記録が残っています。その後明治後年まで少量ずつですがチョコレートの輸入はつづけられました。
日本でも受け入られなかった?
しかし日本人の嗜好に合わなかったり、値段が高かったりしたために一般大衆の受け入れるところではなく、僅かに一部階級の需要を満たす程度に止まっていました。
しかし明治末から大正にかけてようやく日本人の嗜好の変化があらわれ、国産のチョコレートが市販されはじめました
森永商店の登場
明治32年8月、森永商店がクリームチョコレートの製造販売を開始し、次いで大竹商店や後藤商店等も加工販売したが、当時、売れ行きはいずれも僅少でした。明治36年森永が 大阪でおこなわれた第5回内国勧業博覧会にチョコレートクリームを出品していますし、42年3月には板チョコレートの「1/4封度型」を製造販売したのが日本最初の板チョコの生産でした。
また明治43年になると、芥河洋造氏が米国より帰国、日米堂芥河商店の名でチョコレート菓子の製造を始めました。しかしこの頃の原料はすべて輸入ビターで賄われ、被覆用の原料(ビター チョコ、スイートチョコ)やカカオバターを輸入、または輸入元より仕入れて適宣に処方し、加工していたに過ぎませんでした。
森永製菓・明治製菓が大規模な設備を導入
大正7年6月森永製菓がアメリカからカカオ豆よりの一貫作業機械を輸入し、おくれて大正15年明治製菓もドイツから大規模な設備を導入して製造を開始したのですが、これより先、大正6年から15年までの間に、中小のチョコレートメーカーも関東、関西にわたって10数社が創立、日本のチョコレート産業はようやく活発となっていきました。
戦後までチョコレートの生産高は微々たるもの
しかしカカオ豆の輪入統計から見れば、この頃のチョコレートの生産高は微々たるもので、大正から第二次大戦までの昭和15年頃にかけてはカカオ豆の消費は年間500トンから1,000トンくらいのものでした。
戦前は台湾およびパラオ諸島においてもカカオ樹の移植栽培が試みられたのですが、成果がでないうちに大戦となってしまったのです。
カカオ豆も戦時中は輸入は無くなり、昭和13年に設立されたチョコレートの統制組合も19年には解散して、僅かに軍が南方占領地帯から運んできた数十トンのカカオ豆で、技術の保存をはかっていました。
伸び続けるチョコレート
戦後は駐留軍によって永い間忘れ去られていたチョコレートの味を再びよびもどす動きがおこって、昭和24年9月には日本チョコレート工業協同組合、および25年3月にはチョコレート原料対策協議会(後の日本チョコレート・ココア協会)が創立されて、カカオ豆輸入再開の運動がおこりました。
輸入外貨割当に成功したことで、砂糖の裏付配給や工場設備の復興等も年を追って推進され、戦後の食生活の洋風化の波に乗って大衆のチョコレートに対する需要は急テンポで伸びていきました。
現在では、カカオ豆の輸入は戦前の30倍、すなわち年間3万トン以上に達し、その生産高は菓子全体の20%を占め、なおまだ伸び続けています。
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